2016年12月13日

「夜よさようなら」

京都、静かな雨の朝・・・
雨音を聴き、内省的になる冬の日に
いつも思い出すシーンと歌がある
もう既に、引退されたと風の噂の金子由香利さんは
20代から40代にかけて、最も聴いた歌手ではないだろうか

...

こののち、大手アパレルに在籍していた頃には
関連会社で少しだけ割安のチケットを買い
何度かコンサートに出向いた
その話はまたいずれ・・・ということで昔話を。。。

10代で京都に来て今日までの間、引っ越しは10回以上
どの場所にもそれなりの思い出があるが
一歩ずつ確実に、自分の夢に近づいている予感を感じながら
充実した若い日々を過ごしたのは、花街であった宮川町の
今は無き酒類卸業社の倉庫の上にあった
アパートの三階に住んでいた20代半ばの頃・・

ファッションコンテストに3回入賞し、一応の目標を達成した後
次に薦められてチャレンジしたのは、
京都市と京都デザイン協会主催の『京都デザイン展』である

そのときのテーマは「元気」だったか。。。
見てパワーが出るような・・というコンゼプトの作品は
全判パネルを2枚使って、一つのファッションイラストに仕上げた

いざ搬入する際、車は持っていないし、当時アルバイトもあり
時間の都合で持ち込みの搬入もできないので
宅配便で送ることにして、取り扱いのあった近所の酒屋さんに
大きなボードを抱えて持って行った

当時付き合っていた、後の夫である彼と一緒に
休日には酒を買いに行っていたので、とりあえずの顔馴染みである
奥さんは、三林京子に似た目鼻だちのはっきりした
ちゃきちゃきした中年の美人である

店にいた奥さんに事情を説明すると、少しの間の後、奥に向かい
「ちょっとあんた〜〜!」と呼ぶと
人のよさそうなご主人が出てこられた

「こんな大きなの送ってたら高ついてかなんさかい
あんた、明日この荷物持って、岡崎まで行ってくれへんか?」
と、言ってくださったのである

まさかの展開に驚いてしまったが、奥さんのご厚意はありがたかった
ご主人は、断る勇気もなかったのか?;;
快く引き受けてくださって、結局お世話になったのだけれど
あの界隈の方々は、下町の人情に厚く
これに似たありがたい思い出がたくさんある

結果、その作品は「銀賞」を頂いた
翌年、全判パネル4枚で仕上げたものは「銅賞」だった
全部門の中でのその賞なら、そこそこよい・・・というよりも
できすぎではなかったろうか?

講評は『レイデザイン研究所』主催の、故『河合玲先生』
私の母校の創立者である『磯村春先生』や、
現・京都造形芸術大学の前身、『藤川学園』の創立者である
『藤川延子先生』と並び、京都のファッション界の
創成期を担った方である

学生当時から、いろんな方に
「あなた、ドレメより、レイの方が向いているんじゃない?」
と言われていたので、玲先生の講評には、ドキドキした

講評は概ね好評というよりも、これもまた出来すぎていたが
「素晴らしい。ただ惜しい。

全ての文字のレタリングをしっかりやって欲しかった」というもの

イラストの中に、何か所か『元気の出そうな』

メッセージを入れたのだが、良く言えば、パワー炸裂の、手書き
悪く言えば、手抜きに見える

当時は、今のように、パソコンを検索すれば
いろんな字体がすぐに手に入るような時代ではない
全ての文字を一応「わざと」
「ちゃんとしたレタリング」にしなかったのだけれど
産業デザインも部門にあった『デザイン展』なら当然のことかもしれない
とても勉強になったし、もしやっていたのなら
もしや更に上の賞だったのかと希望も湧いた

そんなうれしいこともあった頃だが、バイトの身でまだまだ貧乏で
むしろそれを楽しんでいた風もあったが
部屋には風呂がなく銭湯通い
ときどき、宮川町の舞妓ちゃんと一緒になった

テレビは、この頃、中古で買ったが、電波が悪く
暖房は、小さな電気ストーブ一つの部屋の窓の
端っこの方を少しだけ開けて、冷たい風が入る隙間に
テレビのアンテナをそこから出し、画面の映りを調整した(笑

テレビより、当時よく聴いたのは、地元KBS京都ラジオで
パーソナリティは、まだ駆け出しの森脇健児、
ツンツンに尖って怒ってばかりいた桂文珍、
AV界から転身した寺島まゆみ
少しイントネーションのおかしな関西弁を使っていた徳永英明、
あのおすぎとピーコなど、今もほとんどがご活躍で
かなり個性的な面々の、お若かりし頃である

あれは、おすぎとピーコさんの番組だった
いつものように、毒舌で騒いだ後、番組の最後に
急に真面目になって、金子由香里さんの話をされ
選ばれたのが、この曲である

冬の寒い夜だった
シンシンと静かだった
私のいた当時の現実、あの時間、歌・・・
全ての状況が、忘れられないシーンを作ったのだろう
乾いた綿が水を含むように、歌が心に満ちて心地よかった
聴きながら、よし!頑張ろう!と思った

私が天職と思える職場に出会ったのはまだまだ先
小さなアパレルを3つ経験した後である
先を急ぎながらも、歩みは遅かった
昭和の終わり、間もなく訪れるバブル時代の前夜でもあった


金子由香利 夜よさようなら



posted by マロニエのこみち・・・。 at 10:59| 京都 ☁| Comment(2) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ご無沙汰しております。

20代でコンテストに何度も入選するとは、やはり才能ですかねぇ。私は京都に20歳までいましたが、将来の展望もなく、ガールフレンドもいず、もちろん華々しい経歴などとは無縁の貧乏学生でした。
京都駅前にあったUCCでウェイターのアルバイトを終え、四条河原町の友だちが店長を務めるラーメン店に転がり込んでラーメンをすすっていたとき、突然、「このままではあかん!」と思い、東京に行くことを決意しました。無謀としか言いようがありませんが、野垂れ死にすることなく今日まできたのですから、人生なんとかなるものですなぁ。
Posted by ギャンブラー at 2016年12月15日 22:04
ギャンブラーさん

お久しぶりです♪
ありがとうございます!

才能なんて何もないのですが、20代だからこその勢いなんでしょうね。
今やれと言われても無理ですが。。
私もちょうどこの頃、東京に行くかどうか、一時考えたことがあります。
ギャンブラーさんは、京都で学生時代を過ごされたのに
よく思い切って東京に行かれましたね。
むしろそのことの方が素晴らしいと思います。
京都は、一部の企業を除くと、仕事をするには難しいというのか。。
狭い世界での人間関係抜きではできませんから、仕事をするなら東京か大阪。
ギャンブラーさんには、東京の水が合っていたのですね!
Posted by マロニエのこみち・・・。 at 2016年12月16日 09:19
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