2016年12月13日

「夜よさようなら」

京都、静かな雨の朝・・・
雨音を聴き、内省的になる冬の日に
いつも思い出すシーンと歌がある
もう既に、引退されたと風の噂の金子由香利さんは
20代から40代にかけて、最も聴いた歌手ではないだろうか

...

こののち、大手アパレルに在籍していた頃には
関連会社で少しだけ割安のチケットを買い
何度かコンサートに出向いた
その話はまたいずれ・・・ということで昔話を。。。

10代で京都に来て今日までの間、引っ越しは10回以上
どの場所にもそれなりの思い出があるが
一歩ずつ確実に、自分の夢に近づいている予感を感じながら
充実した若い日々を過ごしたのは、花街であった宮川町の
今は無き酒類卸業社の倉庫の上にあった
アパートの三階に住んでいた20代半ばの頃・・

ファッションコンテストに3回入賞し、一応の目標を達成した後
次に薦められてチャレンジしたのは、
京都市と京都デザイン協会主催の『京都デザイン展』である

そのときのテーマは「元気」だったか。。。
見てパワーが出るような・・というコンゼプトの作品は
全判パネルを2枚使って、一つのファッションイラストに仕上げた

いざ搬入する際、車は持っていないし、当時アルバイトもあり
時間の都合で持ち込みの搬入もできないので
宅配便で送ることにして、取り扱いのあった近所の酒屋さんに
大きなボードを抱えて持って行った

当時付き合っていた、後の夫である彼と一緒に
休日には酒を買いに行っていたので、とりあえずの顔馴染みである
奥さんは、三林京子に似た目鼻だちのはっきりした
ちゃきちゃきした中年の美人である

店にいた奥さんに事情を説明すると、少しの間の後、奥に向かい
「ちょっとあんた〜〜!」と呼ぶと
人のよさそうなご主人が出てこられた

「こんな大きなの送ってたら高ついてかなんさかい
あんた、明日この荷物持って、岡崎まで行ってくれへんか?」
と、言ってくださったのである

まさかの展開に驚いてしまったが、奥さんのご厚意はありがたかった
ご主人は、断る勇気もなかったのか?;;
快く引き受けてくださって、結局お世話になったのだけれど
あの界隈の方々は、下町の人情に厚く
これに似たありがたい思い出がたくさんある

結果、その作品は「銀賞」を頂いた
翌年、全判パネル4枚で仕上げたものは「銅賞」だった
全部門の中でのその賞なら、そこそこよい・・・というよりも
できすぎではなかったろうか?

講評は『レイデザイン研究所』主催の、故『河合玲先生』
私の母校の創立者である『磯村春先生』や、
現・京都造形芸術大学の前身、『藤川学園』の創立者である
『藤川延子先生』と並び、京都のファッション界の
創成期を担った方である

学生当時から、いろんな方に
「あなた、ドレメより、レイの方が向いているんじゃない?」
と言われていたので、玲先生の講評には、ドキドキした

講評は概ね好評というよりも、これもまた出来すぎていたが
「素晴らしい。ただ惜しい。

全ての文字のレタリングをしっかりやって欲しかった」というもの

イラストの中に、何か所か『元気の出そうな』

メッセージを入れたのだが、良く言えば、パワー炸裂の、手書き
悪く言えば、手抜きに見える

当時は、今のように、パソコンを検索すれば
いろんな字体がすぐに手に入るような時代ではない
全ての文字を一応「わざと」
「ちゃんとしたレタリング」にしなかったのだけれど
産業デザインも部門にあった『デザイン展』なら当然のことかもしれない
とても勉強になったし、もしやっていたのなら
もしや更に上の賞だったのかと希望も湧いた

そんなうれしいこともあった頃だが、バイトの身でまだまだ貧乏で
むしろそれを楽しんでいた風もあったが
部屋には風呂がなく銭湯通い
ときどき、宮川町の舞妓ちゃんと一緒になった

テレビは、この頃、中古で買ったが、電波が悪く
暖房は、小さな電気ストーブ一つの部屋の窓の
端っこの方を少しだけ開けて、冷たい風が入る隙間に
テレビのアンテナをそこから出し、画面の映りを調整した(笑

テレビより、当時よく聴いたのは、地元KBS京都ラジオで
パーソナリティは、まだ駆け出しの森脇健児、
ツンツンに尖って怒ってばかりいた桂文珍、
AV界から転身した寺島まゆみ
少しイントネーションのおかしな関西弁を使っていた徳永英明、
あのおすぎとピーコなど、今もほとんどがご活躍で
かなり個性的な面々の、お若かりし頃である

あれは、おすぎとピーコさんの番組だった
いつものように、毒舌で騒いだ後、番組の最後に
急に真面目になって、金子由香里さんの話をされ
選ばれたのが、この曲である

冬の寒い夜だった
シンシンと静かだった
私のいた当時の現実、あの時間、歌・・・
全ての状況が、忘れられないシーンを作ったのだろう
乾いた綿が水を含むように、歌が心に満ちて心地よかった
聴きながら、よし!頑張ろう!と思った

私が天職と思える職場に出会ったのはまだまだ先
小さなアパレルを3つ経験した後である
先を急ぎながらも、歩みは遅かった
昭和の終わり、間もなく訪れるバブル時代の前夜でもあった


金子由香利 夜よさようなら



posted by マロニエのこみち・・・。 at 10:59| 京都 ☁| Comment(2) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月30日

「セーラー服にまつわる・・・」

少し前、セーラー服を作った
・・といっても、本物の学生服ではなくて
例によって、関ジャニと同じ『衣装』なのだけれど・・


作りながら、そういえば、長らく服を仕立てているけど
セーラー服は初めてだったことに気づいた



セーラー服といえば、思い出すことがある
私の通った中学の制服がそれだった
ラインのない紺地に、フロントの当て布もなく
同じく紺のスカーフの、ほとんど原型のようなデザイン・・
夏服は、紺の上衣が綿ポリの半袖の白になる


中学に上る頃、母の従姉妹に当たる・・
(母によれば、生んだ自分よりも、私がそっくりだと言う)
その伯母が、一人娘のお姉ちゃんが着ていたセーラー服は
舶来のカシミヤの上等の生地で仕立てたもので
ほとんど痛んでもいないから、生地の裏を使って
仕立て直したらどうかと言って、譲ってくれた・・

要するに、今私がよくやっている「リメイク」である


あの頃はまだ、ユニフォーム専門店などなく
どこかに個人で仕立てに行くか、
学校が地域の洋服屋に取りまとめてもらって
そこからどこかの仕立て屋に、振り分けていたように思う
確か、制服の仕様書を、学校から預かってきたような記憶が・・


私が連れて行かれたのは、隣町の仕立て屋で
ずっと母がオーダーを頼んでいた店・・
小学生の頃は、既製品が着られるようになったけれど
もっと小さい頃から学校に上るまで
私は体が大きくて、既製品が合わなかった


市内の生地屋で、母が好きな生地を買い
自分の服を仕立ててもらった残り布で、私の服も作らせていた
小さい頃は、月に一度は、その店に行っていたので
久々に行った店の人は喜んで、お嬢ちゃん、大きくなって・・・
などの会話をしながら、寸法を測ってもらったのだ


今思えば、そんな時代の仕立て屋は、さぞかし大変だったと思う
上衣だけならまだしも、
多分24本くらいの、オールプリーツの時代である。。

中学の校則は厳しくて、セーラー服の下には
胸元から見えるものを着たらいけなかった
寒い冬、一体何を着ていたのだろう・・
確か、同じ紺のカーディガンを羽織っていただろうか。。
コートも紺かベージュのダスターコート
タイツも穿いたらダメで、ストッキングに、白のソックスだった
唯一自由だったのは、マフラーと手袋だったように記憶している


全て解いて仕立て直すなど、とても大変な作業である
今、やっているからよくわかる

実際のところ、手間賃から言うと
かなり高価な制服になってしまったのではないだろうか。。
先日の布フェスではないけれど、その頃はまだ
『いいものを大切に長く使う』の風習が
残っていたのかもしれない


他の友達が、サージのウールを着ている中、カシミヤの
しかもお姉ちゃんから譲り受けたオーダー服なのだということは、
ちょっとした内なる誇りでもあったけれど
以前、無花果の話で書いた様に、中学時代に楽しい思い出は少ない


根っこが生真面目な、田舎の中学生だったから
今のように、カスタマイズして着るなんて、思いもよらなかった
ストーブもエアコンもない部屋で、よく我慢していたものだと
今になって思う。。。

写真は、すっかりモデルモードになっている中二のBoy


018-2.jpg
posted by マロニエのこみち・・・。 at 13:00| 京都 ☁| Comment(2) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月28日

「過去ログより・・・芸術の秋、そして一枚の絵のこと」

秋ですねぇ・・・
昨夜は、月が綺麗でした
ケイヨウがさっそく月をカメラに収めようとしたのですが
イメージと違う仕上がりに・・・


「サンタさんに、いいレンズをプレゼントしてほしい」
だそうで・・・
何故かというと、一眼レフをくれたのはサンタさん
サンタさんとは、もちろん私のこと;
一眼レフといっても、一番安いタイプですが・・・;;
ちなみに彼は、まだサンタさんを信じています
サンタさん、がんばります(汗;



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


さて、来月は、土日、ほとんど埋まるくらい、秋の行事が目白押しです
学校も、発表会の準備に忙しいようで・・・

これは、ケイヨウが保育園時代
もう、11年も前に書いた、懐かしい日記から・・・


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


2004/11/25「芸術の秋、そして一枚の絵のこと」



保育園に通う子供が、今、作品展の作品を作っている

牛乳パックや容器の蓋などを使ったり
散歩で拾った松ぼっくりに絵の具で色を付けている
両手で筆を使い、終了時間が来ても止めようとしないらしい

将来は、山下清か岡本太郎、棟方志功のような
ゲイジュツカになるのだろうか・・・
馬鹿親は勝手にこんなことを夢想している・・・



かつて私も、美術、国語、音楽だけは中高通し
常に5段階評価5という、完璧な文科系人間だった

スポーツは苦手だったが、剣道だけは性に合い、
授業を終えると図書館に行き
山本有三、福永武彦、伊藤整などを借り
そのまま武道館で、誰よりも早く素振りを始めた

同じく熱中して読んだ、司馬遼太郎の小説で例えるならば
新撰組の、井上源三郎のような、不器用だけれど稽古が好きで
なぜか実戦には強い・・・というタイプの剣で、意外に早く初段も取得した


稽古を終え、帰宅すると
風呂の火焚きをしながら借りた本を読み
食後は二階の北に面した隙間風が寒い部屋で
小さな電気ストーブに手を温めながら
トップギャランのLPレコードをBGMに
所属している美術部には馴染めないので顔を出さず
一人で芸術展の絵を描くという
割と内省的な趣味を持った、少し妙な高校生だった


入賞した絵などが文化祭で展示されたとき、クラスの男子に呼び出された
ダボダボのズボンを履き、数人で廊下にタムロしている
不良グループの一人である

大抵の女生徒は、怖がってその廊下を避けていたけれど
癪に障るので、いつも私は知らん顔で通り過ぎていたから
多分そのことをあれこれ言われるのではないだろうか・・・



・・・チンピラめ、怖くないぞ・・・


と、指定の場所に行くと
グループの長のような存在の別の男子が待っていた

当時流行っていたジョン・トラボルタを真似て
ポーカーフェイスで上手に踊るのを教室で見たことがある
鼻筋の通った神経質そうな整った顔立ちや 、痩せぎすの骨ばった体は
ある種不気味で私もさすがにたじろいだ



・・・・数秒間の沈黙の後・・・

『あの・・・お前のあの絵、欲しいんやけど・・・』


あの絵とは、京都の寺庭の紅葉を描いた 水彩の点描画のことだった

あまりに意外な言葉と、はにかんだような真剣な表情に
私はすっかり調子が狂ってしまった


『え・・そんなこと言われても・・・』
『売ってくれるか?それならええか?』
『え・・あの・・』
『いくらなら譲ってくれる?』
『え・・・あの・・・・・・1万円・・』


その頃の私の価値観での1万円は、今の10万円位に値しただろうか
もちろん売る気などなかったので、 あてずっぽで口から出た言葉だった


『え・・そうか〜・・・1万円か・・・高いなあ・・』



彼は恥ずかしそうに、ボソボソと口の中で呟くと
そのまま後ろを向き、すごすごと行ってしまった

多分彼の金銭感覚も、私と同じだったのだろう
私はとても悪いことをしてしまった気がして
絵を気に入ってくれたことも嬉かっただけに
日常に戻ってからもそのことが気になって
何度かあの絵、あげる・・と、言いたくなる衝動に駆られたけれど
結局言い出せないまま年を越し、梅の季節が来て
卒業式を迎えてしまった



あの絵は引越しのときに処分してしまい
あのときの彼も今、いったい何をしているのか
私は知らない・・・


middle_1218361741.gif
posted by マロニエのこみち・・・。 at 12:29| 京都 ☀| Comment(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月17日

「無花果と扁桃腺と古いドラマ」

今日は朝から、しとしとと秋の雨・・・
ラジオ第一は朝から国会が慌しく
雨に、チリの地震に、国会に・・・と気が滅入るので
FMに変えて、クラシックを聴きながら、
黒いベロアのロングドレスを作っています・・・


ところで、ご近所の農園の無人販売所では
少し前まで、イチジクが売られていました
そして、ときどきは、手作りジャムが・・・

残念ながら、イチジクの実は、争奪戦で買えなかったのですが
ジャムは、行ったら残っていて、今年、三つも瓶を買いました。。。

そんなイチジクのことを書いた、思い出エッセイがあったので
10年前のブログよりご紹介。。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2005/10/4 「無花果と扁桃腺と古いドラマ」  


早朝、稲荷大社近くの
静かなお屋敷街へ犬のお散歩に出ると
植え込みからふんわりと甘〜い香りが・・・
もう金木犀の季節なんですね
秋です!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


わりと最近まで、毎年この季節
変わり目の時期に扁桃腺を腫らして微熱を出した

少し頑張れば、学校や職場に出られないこともないのだが
不愉快な喉の痛みも手伝って
夏に疲れた体を癒すためか、毎年休んだ
まるで秋到来の恒例行事のように・・・


中学生だったその頃の私は、朝、ゆっくりと睡眠をとり
少し気力が出てくると、季節には少し早い
ベージュに茶の編みこみの、自分で編んだ
ガウンのようなカウチンのカーディガンを
パジャマの上に羽織り、ふらふらと裏庭に出た


昼近い秋の日差しが暖かく、穏やかで心地よく
まるで甘やかされている小さな子供のように、幸せな気分になれた


庭には柘榴(ざくろ)、枸杞(クコ)
ゆすら梅、スモモ、夏蜜柑、八朔(はっさく)
桃など、実のなる木がたくさん植わっていて
なかでもこの季節、無花果(いちじく)は 、たわわに実をつけていた

家族で他に誰も食する者がいなかったが
唯一私はこの果実が好きで、手を伸ばして、一個ずつ大きな実をちぎり
その日初めての食物を口にするのだった


庭の南端に湿った土の匂いのする物置小屋があり
そこに母の子供時代の【少年倶楽部】【少年の友】
のような名前の、古い雑誌や
『ラクサ ラクサ』などと右からカナで書かれた
古い教科書や、骨董品の水屋や
切子のガラスなどがガラクタのように乱雑に入れられていて
古い本独特の匂いのする雑誌を開いて
大蛇(おろち)や竜が出てくる探検小説などを
ドキドキしながら読んだりもした


昼になると、のそのそと茶の間に行き
味噌味の雑炊、または梅干のお粥などを食べた後
その頃毎日放映されていた【ライオン奥様劇場】
(多分こんな名前だった 今もあるのだろうか?)を観るのだった


その頃のTVドラマは、文芸小説原作のものが多く
ざっと記憶をたどってみても・・・


●樫山文枝主演・林芙美子・原作【放浪記】
●佐藤オリエ主演・林芙美子・原作【浮雲】
●佐藤佑介主演・立原正秋・原作【冬の旅】
●佐藤オリエ主演・高村光太郎・原作【智恵子抄】
●速水亮主演・田宮虎彦・原作【別れて生きるときも】
●上村香子主演・石川達三・原作【転落の詩集】
●大和田獏主演・曽野綾子・原作【二十一歳の父】
●島かおり主演・河野実・大島みち子・原作
【愛と死をみつめて】


などがあった
全部よかったが、放浪記は絶品だった
樫山文枝さんの歌っていた
『捨〜て〜てきたふるさとを〜♪』という主題歌は
今でも覚えていて歌うことができる(笑)

続きが見たくて早退したり、 お腹が痛いと言って休んだり
試験中は、誰にはばかることもなく早く帰り観たものだ
思えば困った子供だった


野や、林や、麦畑を、真っ黒になって、走り回っていた幼少時代と異なり
思春期は一変して、内気で、部屋にこもることが好きな
病気がちな少女になった

父は、こういう私を【真昼のガス燈】と称して嘆いていた


小学校高学年から中学にかけては、何の楽しい思い出もない
小説や、ラジオや、毛糸や、歌番組が友達だった
しかし、こういう形であれ、文芸小説に触れたことは
収穫だったのではないだろうか


その後、もう一度、原作を読みかえすことで

私の読書熱にさらに火をつけ
原作を書いた田宮虎彦、立原正秋などの
珠玉の名作はほとんど読破し
温かく優しい人の心に触れたり
厳粛な和の世界を知ることができた

趣味だった編物や洋裁は、今の生きる糧となり
好きだった音楽は、今の自分の潤いになっている

人生なんの無駄もないんだ・・・

そんな気がする
たまには、自分を甘やかして
したいことだけを思う存分する時間があっても
決して悪いことではないのではないか・・・・・


単なるまわり道だ
どうせ、嫌でも、歩き続けなければならないのだから・・・
人生、道草も必要だ・・・

続きを読む
posted by マロニエのこみち・・・。 at 15:18| 京都 ☔| Comment(2) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月11日

「再び、荻窪の寺と柿の木にまつわる・・・」

3月11日・・・
我が家で、震災以来変わったこと・・・
TVのニュースや、報道系の番組を、一切観なくなりました
本当に知りたいのは、今現実に起こっている真実・・
単に不安を煽り立てるようなマスコミの情報には辟易してしまい
ただでさえ、情報に溢れている現在、小さなラジオひとつあれば
十分ではないかと思ったから・・

改めて、震災で亡くなられた方のご冥福と、
今も尚、辛い思いを抱えておられる方々の、
ご健康と、ご多幸を祈ります


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



さて・・・
最近・・・というよりも、実は今朝、長年知りたかったことが判明し
ちょっとしたうれしい気分になっている・・

ずっと欲しかった本が、ネットでみつかったので
購入した先の住所を見て・・・・・ ?!
見覚えのある字!
あの時、滞在した町の名前は、ここに違いないと確信した

ネット社会の昨今、頼りになるのがGoogleマップである
路地まで入ることができなかったり
隣の家が映っていたりと、完璧とはいえないまでも
ある程度の土地勘はわかる

従って、その見覚えのある字を入力し
地図に戻って、その辺りに、寺がないかを探してみると・・・・

あった・・・・!

小さな寺、大きな柿の木のある中庭
その離れの、滞在していた二階建ての小さなアパートは、
いまやすっかり無くなって、
ありふれた新しい建物一つに変わってしまってはいるけれど・・・


何故、わかったのかといえば、看板である
・・・と言っても、すっかりこのことは忘れていたのだけれど
寺にしては何だか不釣合いな、単なる細長い縦型の白い看板に
名前を入れただけのものが、建物のある四辻の角に、無愛想に建っていて

実は由緒ありそうな、この寺に不釣合いなこの看板は、
あまりにもぶっきらぼう過ぎて、何だか少しヘンだな・・・と
30年前に思った違和感が、
すっかり様変わりした街角に、そのままある今の姿と
ようやくリアルに繋がったのだ・・・


その記憶を記した記事はこちら・・・
古い読者様には、もう何度目にもなるはずの、
私の青春話である・・・




ついでに、自転車の後ろに乗せてもらって行った
銭湯もどこかにあるかも・・・二高の前を通って行くと
もしかしたらと思ったが、あいにくそれほど暇な時間はないし、
きっと多分、もう無くなっているかもしれない

地図を見て思うのは、荻窪よりも、むしろ阿佐ヶ谷の方が近いのに
何故、荻窪で降りていたんだろうということだけれど
荻窪の駅前も、随分と変わったことだろう・・・


とりあえず、こうして懐かしい看板を見て
久しぶりに、古い記事を読んで、なんとも懐かしい気分に浸れた
それだけで十分である

昨日の記事で、私はあれらの曲を聴けば、高三の頃に戻れると書いたが
この地図の場所を「お気に入り」に入れて
時折、この看板を眺めてみれば
私は、あの人生の岐路となった24の初秋の頃に
いますぐにでも、戻ることができるのである・・・



東京といえば、先月の旅行の際、
夢二美術館前の、みなと屋さんで頂いた
アールグレイがあまりに美味しかったので
あれ以来、珈琲よりも、お紅茶を飲むことが多くなった

昨日、お客様が来られて、手土産に、
とても美味しいバームクーヘンを頂いた
アールグレイを入れていただくお菓子と、懐かしい青春の日々への思い
久しぶりくらいに充実した至福のときである

こういうことをしていながらも、どこかで心が痛むのは、
4年前の今日に、悲しい出来事があったからである
もしかしたら、あの寺が、あまりに殺風景な姿に変わったのも
あの震災後だったのかもしれないと思ったりする

posted by マロニエのこみち・・・。 at 09:42| 京都 ☀| Comment(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

「続々・ルーツ・・・キササゲと曽祖父のこと」

時々、思い出したように、記事にしている曽祖父のこと・・・
古くからの読者様には、誠に申し訳ないのですが
以前書いた記事はこちら・・・




このたび、また曽祖父のことを書こうと思ったのは
つい先日、偶然、「キササゲ」の花をネットで見たこと
そして、「花子とアン」で、石橋蓮司演じるおじいが無くなったこと
そして、画面を観ながら、石橋蓮司が
月形龍之介に、よく似てきたと思ったからだろう・・・

幼かった私の、曽祖父のイメージは、まさしく月形龍之介だった
居るだけで場が締まる、いぶし銀のような明治の男である

さて、その曽祖父・・・
若い頃から、知識欲が旺盛で、ご隠居さんになってからも
新聞の下の欄の、漢方や医学書、薬の類を見つけては切り抜いて
それを取り寄せるのが趣味だった

家の中は、いつも薬草を煎じる匂いがした
多分、キササゲの実を、煎じていたのではないかと思う
調べると、キササゲは、尿の病気に効くとある
きっと前立腺でも、患っていたのではないだろうか・・・

キササゲの木は、庭の南南東の辺りに植えられていた
近くには、石榴、無花果、夏蜜柑、柿、ユスラウメ、
ハナズオウ、スモモの木もあったけれど
キササゲが一番高く、葉もよく茂っていた

ネットで見た花は、クリーム色で、思いがけなく、ふわふわと美しかった
そんなに綺麗なら、覚えていそうなものだけれど
記憶にないのは、背が高すぎて、間近に見る機会がなかったからだろう・・・

庭には、他に、当時流行っていたコンフリーもたくさん植えられていて
大きな葉は、いつも天麩羅になって食卓に上がってきたし
西の、お隣さんとの境界には、クコの木が、生垣として低く植えられていて
赤い実は、祖母がクコ酒にしていたし
私も、甘渋い実を、庭遊びのときに摘んでよく食べていた


そんな曽祖父が亡くなったのは、私が小学2年の11月である
棺の中は、大輪の白菊で埋め尽くされていた
その前年には、一つ違いの弟を、亡くしたばかりだった

女の子に恵まれず、男の子に飽きていた曽祖父は
弟をほったらかしで、私ばかりを可愛がっていたらしいが
弟の棺にしがみついて

「こんな年寄りが生きているのに、できることなら代わってやりたい」

と、泣いていた姿を今でも覚えている

外出することもほとんどなかった曽祖父は
夏は白いシャツにステテコ
寒くなると、ラクダのシャツと股引に、渋い色の着物を合わせた
更に冷えると、その上から、ドテラを羽織るのだ

亡くなった朝、いつもどおり、私は曽祖父の寝床の横を通ったが
布団の下には、ドテラを着込んで、左脇を下に寝ていた
あの時は、既に息絶えていたのだけれど
全く気づかないほどに変わらなかった
きっと苦しみもせず、寝たまま逝ってしまったのだ


そんなに可愛がってもらったのに、小さな子供というのは薄情で
あのとき、それほど悲しんだ記憶がない
でも、偉いもので、人一人亡くなると、家の様子が少しずつ変わっていった

まず、家の匂いが変わった
あの薬草を煎じる匂いがしなくなったのである

キササゲの葉は、冬になると落ちてしまい
実の詰まった茶色く枯れた長い鞘だけが、まるで幽霊の手のように
木枯らしに吹かれて、ゆらゆらと揺れるのである

寒い冬の夜、ゴオゴオという風の音と
窓の向こうで不気味に揺れる黒い鞘の塊を見ていると

ああ・・・お爺ちゃん、本当にいなくなっちゃったんだ・・・

と実感した
生きていた頃には、茶色く枯れた実を見たことがなかったのだ
そうして私は、二度目の喪失感を幼心にも味わった・・・


さて、そんな曽祖父の写真、前に書いた頃は、スキャンが壊れていたので
デジカメで撮ってぼやけていたから
今回、もう少し鮮明な画像に直そうと、アルバムを開いてみると
別バージョンの写真が見つかった
そちらのほうが、同じ横顔だけれど、より鮮明に、曽祖父の顔がわかる

月形龍之介よりも、もう少し洋風のようである
足や手は小さそうだ
何より、頭の形がとても知的だ
お爺ちゃん、やはり渋くてカッコイイ・・・と思った

ネットの時代、お取り寄せは当たり前だけれど
曽祖父が生きていたら、きっと通販にはまっていたことだろう
今は、私が、同じように、健康食や、健康本を取り寄せている
そして、時々、主に仕事関係の、古い教則本のようなものを見つけては
病気のように大人買いして集めている

若い日を、都会で、知識や芸術にまみれ過ごした曽祖父にとって、
思いがけない田舎暮らしは、さぞかし物足りなかったろう

なにやら知識が、枯渇していくような焦燥感を覚えたのではないだろうか
そして何より、もっともっと知りたいことがあり、勉強したかったのだ

この歳になり、曽祖父の気持ちがよくわかる・・・


img058-1.jpg

img043-2.jpg






posted by マロニエのこみち・・・。 at 01:05| 京都 ☀| Comment(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月19日

「あるフィリピンの娘のこと」


今朝は、ケイヨウを学校に送り、
帰り、コンビニに立ち寄って、
ランチ用のサンドイッチや牛乳などを買った

全部で650円程度の買い物で、1000円札を出し、
お釣り待ちの間、ふと視線を落とすと
台風で被害に遭ったフィリピンへの募金箱があったので
返金された小銭をそのまま箱の中に入れて帰ってきた

フィリピンは、行ったこともない国だけれど
ある娘を思い出すのだ

あれは、香港が返還を迎える年のこと・・・
仕事で数度、香港に渡り、時に隣の深センまで足を伸ばした
会社から貰ったチケット片手に飛行機に乗り込み
現地のスタッフに会うまでの一人旅

出張も、仕事そのものも、行く場所も
かなりスリリングだっただけに
今となれば貴重な思い出話である

行った間に出会った食物や飲食にまつわる数々のこと
それを思い返しただけでも、面白くて懐かしい

宿泊先の高級ホテルで、一人とったモーニングの緊張感
呑み過ぎて食べ損なった、
ルームサービスの美味しそうなトロピカルフルーツ
雑踏の中にある街の食堂のランチの麺
中国、深センの、殺風景な日本料理店の
干からびたような枝豆と、ぬるい燗の酒
皮を剥かれた大きな豚は、駅前の露店に並べて吊るされていた
けたたましくジープの走る砂埃の道の傍らの水浴び場で
何かを叫びながらキューリを齧る
貧しそうな下着姿の親子たち
裸電球に照らされた、角の小さな果物屋の新鮮なライチ
スタッフたちとの楽しかった中華料理の会食
ペニンシュラホテル最上階のラウンジで頂いた赤いブラッディメアリー

さて、そのフィリピン人の娘・・・
あの時、ビスタチオをつまみながら
飲んでいたのは、バーボンの水割りだったろうか・・・

季節は7月、亜熱帯の国の真夏は、耐え難いほどに蒸し暑かったが
建物の中は、どこも一様に冷房が効きすぎて寒かった

夕食の後、スタッフに連れて行ってもらったのは
原色の古びた看板やネオンが雑多に乱れる
路地の奥のスナックである

仕事終わりの開放感で、店の女の子との会話もカラオケも
男の営業は楽しそうだ
寒い室内、グラスを持つ手も凍り始め
こういうところは、女の来るところではないな・・と思いつつ
ふと視線を感じた先に、大きな瞳の娘がいた

娘は微笑みながら、
「寒くない?」
と、私の手を握り、話しかけてきた
フィリピンから、出稼ぎに来ているのだという

私はパンツスタイルに、タンクトップ
その上から長袖のカーディガンを羽織っていたが
細いサンダルにミニスカート、薄物を着ているその子の
細い指先は冷たかった

貧しい国で生まれ育ち、
教育も満足に受けていないはずなのに、
母国語はもちろんのこと
広東語、英語、片言だが日本語も話せた
客たちの様子を見て、よく気の利く応対をする

「日本語、上手ね」
と言うと
「ニホンジン、エイゴ、ニガテネ」
と笑っていた

あの娘は、いったい何歳だったのだろうか
たぶん、二十歳前後
あれから十数年の月日が経ったが
それでも、まだ三十代の半ばだろう

母国には帰ったのだろうか
結婚して、子供もできて、幸福に暮らしているだろうか
まさか、被害に遭っていなければいいのだけれど・・・

と、たった数時間の間だけ、同じ部屋にいて
手を握り合っただけなのに
あの娘の凍ったような細い指と、
潤んだ大きな瞳が忘れられない

この香港話は、テーマを変えて何度も書いてきたと思うが
それだけ私にとって印象が強かったのだ

posted by マロニエのこみち・・・。 at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月16日

「昭和の風景…コールタール」

一昨日の【王将】や【三丁目の夕日】で懐かしく感じるのは土の道路
まずはこちらの過去記事をクリックしてみてくださいませ
映画そのままの昭和な風景&可愛らし(かった)い私が出て参ります(^^;

2007年03月24日「昭和の風景…古い写真」

ここでもまず目が行くのが土の道路・・・
この道はいわゆる旧道で、車の数はまだ少ないながら
バスも走っていましたし、お遍路さんや往来の人で、そこそこ賑わっている通りでした
しかしながら、当時はまだ土・・
雨が降ると、泥が跳ねて、入り口のガラスや、下の木の部分が
よく汚れていたのを思い出します

道路の塗装工事がいっせいに行われ始めたのは
多分、70年の、万博の頃ではないでしょうか
工事もなんだかアバウトで、表面が平らではなく、凹凸があって
あちこち水溜りも出来ていたような・・・(^^;
そして、その塗装は【コールタール】で・・・

このコールタールなるもの、暑い日には柔らかくなり、
まるであの【プチプチ】みたく、あちこちの表面に気泡ができるわけです
私たち子供は、その気泡を見つけては、我先にと足で踏み潰し、
プチっと音が鳴るのをうれしがっては、学校帰りの楽しみにしていたものです
家に帰ると、靴の裏を見た母が
「またコールタール潰したやろ!落ちないのに・・」
と、ヒステリックに叫んで叱られました(^^;

私などの悪戯などまだ可愛いらしいもので、近所の男子の悪ガキなどは
木片や傘の先で柔らかいコールタールをほじくり出して
よそ様の家の、まだ真新しいブロック塀にその黒いものを擦り付け
大人たちから大目玉を食らっていました

その懐かしのコールタール
この頃、そんな気泡を見たことがないので調べてみると
何と!発がん性のある有害物質なので、今は殆ど使われていないとのこと
石綿問題、砒素ミルク、水俣病など、高度成長期の昭和の時代は、
有害と知らずに色んなものを使って、哀れも感じる時代でした・・

そんな1970年にNHKの合唱コンクールの課題曲になった歌
少し物哀しく美しいメロディに、公害問題を提唱した岩谷時子さんの歌詞を
さりげなく乗せている名曲で、ケイヨウが小さい頃、よく歌って聞かせたので
彼は今も、この曲が大好きなのです


posted by マロニエのこみち・・・。 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月07日

「阿波の遊山箱〜川遊びの思い出」

ずっと以前、こんな記事を書いたことがあった

2006年04月29日「川遊び、野草の思い出」

このとき私は、
>春になると、恒例行事のように、友達と連れ立って川に行った

と書きつつも、そのとき実は
・・・あの頃の川遊びは、単純に普段の遊びではなく
本当に年に一度の、特別な恒例行事だったのだ・・・
と思いながらも、記憶があまり定かでないので、ありきたりの文にしたのだった
それが、偶然行き当たった記事を見て
・・・ああ、これなんだ。間違いない。私たちは、この行事の為に、
川にわざわざ行ったのだ・・・。と記憶がしっかり繋がった

阿波の遊山箱文化について

遊山箱とは、徳島に伝わる持ち手の付いた漆塗りなどの重箱で
読んで字のごとく、物見遊山に使われた弁当箱
旧暦3月4日の川遊びや、花見のときに、子供が専用で使うもの
そして更に行事について詳しいことが、徳島県立博物館の資料に書かれている

Q & A 「シカノアクニチ」とはどういう日ですか? 

とにかく私は子どもの頃、旧暦3月4日の日に、母屋と言っていた親戚の
幼なじみと連れ立って、子供たちだけで、近所の河原に遊びに行った
その日は、朝から祖母と母が、巻き寿司や卵焼き等のご馳走を作ってくれ
「お雛さんのあられ」と呼んでいた小さなあられや「ういろう」などを
水筒と共に持たせてくれた

川は、子どもの脚で歩いても10分程度のところにあって
普段から時々遊びに行ったりはしたものの、
こんな風に、仰々しくもお弁当持参で
「行っておいで!」と声をかけて、送り出してくれるのは、この日だけだった
行ったのも多分三度ほどだと思うが、
毎年出かけられたのは、春休みだったからだと思う

水が温み、明るい日差しが川面を照らし、枯木に足を取られたり
棘に刺されないよう気をつけながら
白い野バラの匂いをかいだこと・・・
お祖母ちゃんへのお土産に、イタドリや土筆や、「カラスのパッパ」を摘んだこと・・・
裸足になって、そっと浅瀬に入り、日差しで熱くなった石で足を乾かしたこと・・・

お腹が空くと、母屋から持って来てくれたゴザを広げて川辺に座った
日差しの中で食べるお弁当やお菓子の美味しかったこと・・・
お雛さんのあられは、それもそのときだけのもので
お茶の上に浮かべて頂くのだけれど、ほんの少し塩気がして妙に美味しかった
徳島のういろは、名古屋のそれとは違い、とても弾力があるのである

本来ならば、これらを遊山箱に詰めるのだけれど
私の持っていたのは、確か中央から両開きの籐のバスケットだった
それなのに、遊山箱を知っていたのは、多分、親戚の子が持っていたのかもしれない
これらの懐かしい伝統行事が行われたのは、昭和40年頃までということだから
私は、その最後の世代なのかもしれない
妹や弟たちは、多分知らないのではないだろうか・・・

母は、大阪で生まれ、幼少期も大阪で過ごしたから、
この経験は、多分、なかったのではと思うけれど
祖母は、嫁に来るまで、徳島で生まれ育ったので
旧暦3月4日は、こうするものだと普通に思っていたのかもしれない

思う存分遊んで家に帰ってから、母と一緒にお雛様を仕舞ったと記憶している
私のお雛様は、お顔が美しく、七段飾りの立派なもので、
箪笥などの小さな調度品も可愛らしくて好きだった
お雛様の壇の前にも大きな机を出して、赤い布を掛け
コケシやフランス人形や、くるくる回る人形のオルゴールや
お土産物のクロンボの人形までも
家の中のお人形と呼ばれるものを全て並べ、盛大な飾り付けをしていたので
出すのも仕舞うのも大変だったが、楽しかった

長い間、忘れ去られていた遊山箱にまつわる伝統行事は、
この頃、また、継承しようと言う動きがあるそうである
片田舎の故郷に、こんな雅な、誇るべき文化があったこと
そしてその記憶を持っていたこと
送り出してくれた働き者の祖母の思い出
若く、優しく、綺麗だった母のこと・・・

阿波の遊山箱は、別名阿波の玉手箱とも呼ばれるらしいが
これらの思い出の全てが、まさしく玉手箱であり
川面の陽光のように眩しくて温かく美しい・・・

posted by マロニエのこみち・・・。 at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月11日

「フォークダンスと斜体文字」

以前、昨今の運動会について、とても盛り上がったことがありましたが

2008年10月07日「運動会今昔・・・いまどきの運動会」

フォークダンスがいつの間に無くなったのか
何故無くなってしまったのか・・
余計なことかもしれませんが、この時期になるといつも考えてしまいます(^^;

私達、昭和の時代は、小中高と、フォークダンスは当たり前でした
ダンス自体に思い出もあり
また、単純に、「マイム・マイム」「オクラホマミキサー」など
哀愁を帯びた曲の感じがとても素敵だったのに何故なんでしょう・・
ケイヨウの、地域の小学校の運動会も、毎年よさこいソーランや
その年に流行った歌のダンスが殆どです・・・

それと、もう一つ・・
最近知ったことなのですが、この頃は、中学の英語の授業で、
英字の筆記体を教えないそうですね;;
私の記憶では、音楽の五線譜のような4本の線の入ったノートで
ブロック体、筆記体の大文字小文字を、硬筆の学習のように習ったものです
特に筆記体はとても美しく、外国の古い映画に出てくるみたいな
羽根ペンにインク瓶からインクを付けて、手紙などしたためるのに
とても憧れたりしたものですし、何だか自分が大人になったような気がして
嬉しくなったりしたものでした・・

ブロック体だけで事足りると、言ってしまえばそうなのでしょう
外国の字体をわざわざ学習するよりも、もっと実用的なヒアリングや英会話など
学習する方がいいというのはわかるのですが
情緒的なものがどんどん日常から無くなっていくような・・・
このことを知って、驚くと同時に、
とても寂しい思いがしたのですが、これっておかしいのでしょうか?

posted by マロニエのこみち・・・。 at 23:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月06日

「秋のお祭り」

秋も深まり、お祭りの季節です♪
先日は、ケイヨウが学校から、クラスの子達と一緒に、
御香宮神社のお祭りに行きました
新しく始まったNHKの【カーネーション】は
岸和田の『だんじり』のシーンから始まりましたが
勤めていた会社にも岸和田で生まれ育った営業さんがいて
普段はイエスマンなのに、お祭りのときは、だんじりを理由に
しっかり休みを取っていたのに驚きましたし
こちらは夏祭りですが、福岡に出張に行ったときは、丁度博多祇園山笠のシーズンで
ずっとその話をして下さる営業さんがいて・・・

本当に、日本人って、お祭りが・・それも故郷のお祭りに対する思い入れは
とても強いものがあるんだなぁ・・と、とても興味深いです
私の生まれた徳島のお祭りと言えば、やはりお盆の阿波踊りで
私も自分なりの思い入れはあるのですが
秋のお祭りにも、同じくらい郷愁を覚えます・・

日本中、何処にでもあるような、
普段はひっそりと静かな地域の小さな氏神さん・・
一応、春日神社という名前が付いていて
皆は、親しみをこめて、『おかすがはん』と呼んでいました
その『おかすがはん』に、お賽銭片手に母と行き
手を合わせた後は、小さな境内に並ぶ露店で、何かを買ってもらうのです

お祭りは、毎年10月の20日と決まっていて、私の小さい頃は隣町から、
『あきさん』という魚屋の小父さんが、車にお祭り用の新鮮な魚を積み
我が家の酒屋の店先で、仕出しをしたり、魚を売りに来ていたので
毎年、そのお祭りの朝は、お祖母ちゃんと小父さんの話し声、
そして水を流す音で目が覚め・・・

「ああ、今日はお祭りの日だったんだ・・」

と、温かい布団の中で思うのが、
言いようもなく幸福だったのを懐かしく思い出します
その日は、何故か決まって、いつも秋晴れの穏やかな日でした・・
夜には神輿も回ってきました
少しだけ肌寒いような心地よい風は、
刈ったばかりの稲穂の芳ばしい香りを含んでいました

・・・村の鎮守の神様の・・・♪
なんていう歌も、今の子達は知らないかもしれませんね

もう一つ嬉しかったのは、ちゃんと着物を着せてもらったこと・・
母とお祖母ちゃんが二人がかりで、せっせと着せつけてくれたのも懐かしい
今日は特別な日なんだと、そんなことからも感じました
弟も、私と同じように、女の子の着物を着たいとせがみ
こんな風に着せてもらって喜んでいました・・


お祭りの日1


お祭りの日2


お祭りの日3

今年の夏、ケイヨウの独楽が古くなってきたので
新しいのを買いに、玩具屋に行ったとき
秋祭りの露店で見たような指輪を見つけ、
思わず大人買いをしてしまいました・・
夜の露店でキラキラ光っていた小さな指輪・・
髪留めやカチューシャ、そしてこの花形の、プラスチックのおはじきも大好きでした・・
おはじきにしたり、糸で繋いで、ネックレスにしたり・・・

どれにしようかとドキドキしながら選んだときの
あのときめきは、いつになっても忘れたくないと思います
秋・・・
ほんの一瞬、小さな子供に戻れる幸福な時間のある季節です


(追記・・それにしても・・・・・柴犬みたいな顔してますね   私・・・^^;)


玩具の指輪


玩具の指輪2


posted by マロニエのこみち・・・。 at 09:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月23日

「秋分の日とシャンソンと・・・」

今日は秋分の日、お彼岸の中日
朝から爽やかな秋日和で、死者の霊を優しく弔うような心地よい風が
開け放たれた窓から入ってくる・・・

五年前、私はこんな記事を書いたけれど

「今年の柿」2006年10月23日

このとき、皆様に頂いた言葉のように、
遺されたものが幸福になることが、一番の供養になるのだとしたら
多分今頃、後を追うように逝った人たちと
お酒など酌み交わしながら、穏やかな時間を過ごしているのはないかと
私も少しは安堵したりするのである・・・

秋めいた空気が漂いはじめると
春や夏には忘れていたシャンソンのCDを取り出して
静かな夜を過ごしたくなる

少し前に、『巴里の空の下 オムレツの・・・』を読み返して以来
やはり勝手に敬遠していた石井好子さんの歌を聴かなければと思いなおし
とりあえず好きな曲がたくさん入っているCDを買った
その中で、特に気に入っているのがこちら・・

石井好子 私の来た道

歌手生活45周年を記念して作ったCDということで(1990年 秋)
選曲も石井好子さんご自身によるものと、冒頭の寄せ書きに記されている

・・・いささか私の趣味にかたよったレペルトワールではありますが・・

と書かれているが、この偏りがまさしく私の好みと一致していて
歌声が流れてきた瞬間、今まで敬遠していた自分の愚かさを笑ってしまった・・
全曲通して哀愁が漂い、そして慈愛に満ちている
な〜〜〜んだ・・・安堵に思わず笑みがこぼれた

岸洋子さんや加藤登紀子さんなど、私の大好きな歌手を育てられた方だから
素晴らしいことはわかりきっていたはずなのに
何となく権威の匂いがするんじゃないかと意地のように聴かなかった
でも、巴里の空・・・の気さくな文に改めて触れたことをきっかけに
この素晴らしい歌声を聴くことができ本当によかった

深い声に触れたとたん、透明に澄んだ高級な蒸留酒、
あるいは厳冬に頂くしぼりたての日本酒の、
あのするすると心地よく喉元を過ぎる感覚を思い出した
本物とはこういうものなのだろう
何の気負いも、てらいもなく、来る人も選ばず、
無条件に心地よくしてくれる・・・
やはり、この道の先駆者は、懐の深い素晴らしい歌い手であり、人生の師なのだった

これから何年歌ってゆけるか分かりませんが、
これからの短い歌手生活の中で出来る限り、心のこもった歌を歌ってゆきたいと願い、
更に精進する決心でおります。


発売当時、御歳68歳、業界を代表する草分け的存在であるベテランが
まるで新人の選手宣誓や決意表明のように
真摯な言葉で添えた文を読むと、訳もなく目頭が熱くなった・・・

余談・・・
シャンソンのCDを買うとき、アマゾンも品揃えは多いのですが
こちらの 日本シャンソン館 の通販には
流石に専門だけあって、有名無名あらゆるシャンソン歌手のCDが揃っています
建物も素晴らしく、いつか行ってみたい憧れの場所です

posted by マロニエのこみち・・・。 at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月13日

「自由研究にまつわる・・・」

8月の終わり、毎日ラジオを聴きながら仕事をしていたが
各々のパーソナリティが20日を過ぎた頃から
決まって話題に取り上げるのは、夏休みの自由研究のことだった

自由研究、読書感想文、溜まった日記にドリル・・・
今思い出しても確かに頭を悩ます課題だったが・・・;
多分、小学校の4年もしくは5年の夏、
宿題の為に費やした時間にしては、珍しく懐かしい思い出がある

私は、自由研究の課題に、故郷の方言を選んだ
何故なのかは、忘れてしまったが・・
この資料集めに、私は町の公民館に数日通った
一人で行くのは初めてだったが、多分、母がアドバイスしてくれたのだろう

公民館は、昔どの町にもあったような古い木造の平屋建てで、
玄関で靴を脱ぎ、スリッパは履いたかどうか・・
受付は、母くらいの歳の女の人で
図書室には、色んな本が並んでいたが、
やはり地元の歴史にまつわる資料が豊富だった
本は、部屋の中だけでなく、廊下にも溢れていたような記憶がある
私は見つけた本を広げ、ひんやりとした木の廊下に足を投げ出しページをめくった

あの頃は冷房などなく、開け放たれた窓の木陰から
時折り、涼やかな風が入ってきた
蝉の声と、風の触れる微かな音だけが聞こえる静かな館内で
私は本に読みふけった

日頃使っている方言を調べることも面白かったが
故郷の歴史や風習を知ることも興味深かった
中でも、

・・・素顔の美人よりも、おかめの厚化粧・・・

という言葉は、あまりにも印象深い
『東男に京女』ならぬ、『讃岐男に阿波女』という言葉が四国にはあり
要するに四国を代表する美男美女という意味なのだけれど
その美人揃いの(?)阿波女の中で
むしろすっぴん美人より、綺麗に見せようと厚化粧をしている
おかめの方が評価が高いというのである

私なりに分析すると、阿波美人は働き者で情に厚いと言われているが
働き者で、毎日畑に出ると、日焼けして色黒になる
これでは七難隠せず器量が下がるからと、白塗りに赤い紅を差し
少しでもべっぴんさんに見せようとする努力が
至極いじらしいと言うことではないのだろうか
また、化粧をしなくてもいいような白く涼しい顔でいる女は、
多分家の仕事もせず、使い物にはならないというような
田舎特有の固定観念が見え隠れしているようでもあり興味深い

これは、前にも確かどこかで記事にしたと思うのだけれど
そういえば、近所の農家の小母さんたちも
皆、畑仕事の日焼け帽と割烹着の下に
白塗りと赤い口紅の化粧をしていた記憶がある

私はこの言葉を以来忘れられず
故郷の地元銀行のユニフォームのコンペに参加したときも
この逸話を取り入れてプレゼンしたが
この夏の自由研究が、思いがけず、後の成果の一翼を担ったのである

白に黒の水玉模様や、パフスリーブの水色のレースのワンピース
Tシャツに黄色いホットパンツなど、
当時私が着ていた服などもおぼろげに思い出すが
これらに麦藁帽子をかぶり、青い穂を付けた田んぼの脇道を
自転車で走り抜けた、故郷の夏の思い出は優しい・・・

posted by マロニエのこみち・・・。 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月11日

「続・ルーツ・・・幻の柳行李」

昨日の美味しい頂き物の秋刀魚を、田舎の父にも少しだけお裾分けした
そのお礼の電話がかかってきたとき、
思いがけず、曽祖父の話になった・・・

私に古風な名前を付けてくれた曽祖父のことは
古い『手作り日記』にも記し、時々リンクして登場させているので
よくご存知の方もいらっしゃると思うのだけれど
その記事というのはこちらで、
最も古く懐かしい私の大切な思い出でもある・・・

【ルーツ】

この中に出てくる
>絵描き、外国航路の船乗りなど夢は他にも多々あった
>若き日の夢は、何故かたくさん授かった息子たちがそれなりに果たし

の下りは、外国航路というほどでもないが、
『大阪のおじさん』と呼んでいた甲陽園に住んでいた伯父は
かつて陸軍大佐として外国で活躍したし
『K島のおじさん』と呼んでいた伯父は、外大を卒業した後
満州に渡り、旧満州鉄道の役員として勤務した

この伯父たちの父である曽祖父の『金六さん』は、
外国航路の船長となるべく、資格を取ったのに
こっそり旅立とうと明け方の港に行ったら、
奥さんの『文さん』が港で既に待っていて
連れ戻されてしまったのである(苦笑

絵描きになるという夢は、この『大阪のおじさん』が
定年後、日本画を始め、本を出すほどの成果を収めた
現役時代は『衣文掛け』というあだ名で呼ばれ
体も顔も性格も四角四面で、当時放映されていた
『生きて屍拾うものなし』のキャッチコピーも懐かしい
【大江戸捜査網】の瑳川哲朗さんにとてもよく似ていたので
その話を聞いた時、この伯父と絵はあまりよく結びつかなかった・・
手土産が、大阪の【岩おこし】だったときは、がっかりだったが
【風月堂のゴーフル】のときは、うれしかった

法事などで、この伯父たちが集まると
実の親兄弟なのに、皆が足を崩すこともなく正座し、
敬語で穏やかに話しているので
4才で父親を亡くした養子婿の父は
父子とはこういうものなのかと驚いたそうである
伯父たちは、戸籍上の名前と
いわゆる通り名という別の名前を各々与えられていて
皆、通り名に『さん』付けで名前を呼び合っていた
古の我が家のしきたりだったのかも知れないが
今は勿論、こんなことも廃れてしまった

曽祖父は、その『絵描き』になるべく若い頃、
有名な画家のところに住み込みで修行に行っていたが
いつまで経っても雀の絵しか描かせてもらえず
先生の身の回りのお世話ばかりさせられるので
そのうち嫌気が差してきて、弟子を辞めたのである

さて、長い前置きはさておき、本題である父の話はこうだった・・・

金六さんは、毎日、待望の女曾孫である私の子守をしていた
いつもニコニコと文机に紙と墨を広げ絵を描いていた
幼い私は
「あれ描いて」「次はこれ・・」
と飽きることなく次々と要求したが、
叱ることもなく延々と、言われるままに色んな動物などの絵を描いた
私は可愛い女の子の絵しか覚えていなかったけれど
動物の絵も描いてくれていたのだ
女の子の絵には、私がクレパスで色を塗り
輪郭線からはみ出たヘタな塗り絵は、
座敷の綺麗な襖を惜しむこともなく、几帳面に並べて貼り付けられた

ある日、父が舅である曽祖父に、こんなことを尋ねてみたそうだ

・・・貴方は今までに、色んなことをしてきた。
得たものも多かった代わりに、失ったものも多いはずだ。
今、もしも、何かひとつ叶うなら、貴方は何が欲しいですか?・・・

すると、金六さんは、遠い目をして少し考え

・・・住み込みで絵を習っていたときに
先生の描き損じの半紙を、柳行李に入れてしまっていたが
大阪の戦災で、全て燃えて失った
今、何かを取り戻せるとしたら、失ったお金でも物でもなく
ただ、あの柳行李が欲しい・・・

と言ったそうだ
今まで私は、その先生というのが誰なのか知らなかったが
父の話によると、横山大観先生の愛弟子の某という方で
いわばその紙というのは、お金には換えられない
しかも国宝級の値打ちのあるものなのだろう

幼い私に絵を描きながら、曽祖父は、若き日の自分自身を思い出し
もう一度、先生の下で
純真な気持ちで絵を習いたいと思っていたのかもしれない
いかにも勉強家の曽祖父らしくて切なかった・・・

戦前、祖父の築いた大阪の造り酒屋を
セピア色の写真で見たことがあるが、
丁稚や賄いの人を何人も雇うほど立派なものだった
その跡取りの祖父を病で亡くし、家も無くし
笑っている顔しか覚えていないが
曽祖父の帰省は、傷心のものだったはずである

そういえば、曽祖父は、【素晴らしい世界旅行】のTV番組が好きだった
家にいながら、世界を観ることができる
いつもこう言っていたが、幼い私には全然面白くない時間だったが・・・
あのときもきっと、若き日描いた夢を、思い出していたのだろう

>墨と、クレパスと、鉛筆の芯と、油紙と、新聞紙と
薬草と、時に芳しい厠の匂いと部屋を照らす日なたの匂い

の曽祖父を微かな記憶の中で思い起こすと
幸福で温かく、そして泣きたいほどに切なくなるのだ

posted by マロニエのこみち・・・。 at 13:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月17日

「矢車菊と五月人形のいる風景」

庭の様子が、日ごとに変わってゆきます
桑の木がどんどん伸びて、また葉の収穫のシーズン
花を終えた実も、やがて紫に色づくでしょう・・

もうすぐ咲きそうなのはジキタリス
今年はクチナシの蕾もたくさん付いています
隅田の花火も昨年同様、たくさんの蕾・・
白いノバラの蔓も延びて、こちらも近々、たくさんの花が咲きそうです
そして今年はようやく、タチアオイも蕾を付けましたが
一重の黒なのか、八重のサーモンピンクなのか
咲いてみないとわかりません

今年は育ててみようと思っていた花に
ニゲラやマツバ牡丹があるのですが
もうひとつ、気になっていた花が・・・

今、我が家の玄関に咲いています
その花にまつわる思い出話を別館に書いています

【あとりえ便り・京都・マロニエ通りから】
「矢車菊と五月人形のいる風景」

posted by マロニエのこみち・・・。 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月28日

「オスカ〜ル、アンドレ〜」

この季節になると、何故か思い出す・・・
あの宝塚の【ベルサイユのばら】

小学生の頃の愛読書に図書館で見つけた【悲しみの王妃】というのがあり
もちろん、あのマリーアントワネットの物語・・
先日記事にした【あしながおじさん】そして【椿姫】に並んで
何度も何度も、くり返しくり返し読んでは妄想に耽っていた
大好きな物語ベストスリーでした

そのアントワネットも登場する作品と言うことですから
初演当時、中学生だった私は、TVで放映されている舞台を観て
すっかりその虜になってしまったのでした・・・♪

あの頃、日曜だったかの夕刻に、宝塚の番組があったのですね
そして毎回、ベルばらの舞台が放映されていました
一番好きだったのは、初代オスカル役の【榛名由梨】さん
凛としてカッコよくて・・
ファンレターも書きました〜♪(お返事は来なかったけれど・・涙)

その後、【安奈淳】さんがオスカルになってからは、榛名さんがアンドレ役に・・
でも、アンドレは、その後抜擢された長身の【麻実れい】さんが一番好きでした
アンドレの哀愁が、どの方よりも滲み出て男役としての色気があって・・
こちらも虜になりました

そして、アントワネットの役は、どの方も素晴らしく
【上原まり】さんも素敵でしたが
何と言っても、一番衝撃を受けたのは、初演の【初風諄】さん
アントワネットの、王妃としての気品と風格と
かなわぬ恋をする女性の哀しみと、圧倒的な歌唱力・・
これが宝塚というものなんだ〜〜と、魅了されてしまいました

何故、今の季節に思い出すのかと言うと、
きっとLPを買いに自転車を走らせたのが、この季節だったと思うのですね
隣町のレコード店に、ベルばらのLPが発売されていると聞いて
母にねだったお小遣いを握り締め、自転車をこいだことを
今でも懐かしく思い出します
その後は・・・もう毎日毎日・・シツコク聴いていました(^^;

その【初風諄】さんのアントワネットと、
オスカル役の【榛名由梨】さんが観られるのはこちら・・
最後の方で、大写しになる白い衣装の、
ちょっと歌手の杏子さんに似た方が榛名さん

ああ・・・それにしても、なんと美しい舞台なのでしょう・・



一番好きだった曲【白ばらのひと】



宝塚には興味ない・・
お笑いが大好き・・と言う方、こちらは如何でしょう?
何度観ても笑えます(^^;
ちなみにこのアンドレ役の【香寿たつき】さん
とてもとても魅力的な女優さんだと思います
香寿さんのアンドレは、演技も歌もきっと素晴らしいだろうと思うのですが
私の好みとしては・・ちょっと背が足りないかなぁ・・

宝塚歌劇-関連CM 「ダイハツMOVE」

posted by マロニエのこみち・・・。 at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

「トイレの神様」

【トイレの神様】の歌、流行っていますね〜^^
いつも聴いている関西系のラジオでは
昨年の秋頃からよく流れるようになっていたので、曲は知っていたのですが
歌われているところを画像で拝見したのは、昨年の紅白が初めてでした

やはり音だけではなく、歌う姿と一緒に聴く歌はより感動が深まりますね
昨年の紅白の中で、唯一涙を流してしまいました
小さい頃のお祖母ちゃんとの思い出
自分自身の若さに任せて無茶をしていた頃のことなど・・
温かくて切なくて、ついつい感情移入してしまいます

歌われているときの表情も、表現力がありますね!
それに、とても『べっぴんさん』
歌のように、しっかりトイレのお掃除をされたのでしょうね

私もその言い伝えはよく聞かされていたので
特に赤ちゃんがお腹にいる間など
せっせといつも以上に、よくお掃除をしたものでした
そのお陰でしょうか・・
うちの子は、まるでイ・ビョンホンのように男前です(爆

ところで、トイレにまつわる思い出といえば
ずっとずっと以前に書いたこの思い出話になるでしょうか・・
特に、昔の厠は、夜が怖かったですね〜〜;;
それと、お風呂も外にありました
あの頃はまだ木造のお風呂・・
夏はいいけれど、冬場の寒かったこと!
入りに行く前も出るときも、寒くて寒くて・・
冬場の夜のトイレ、雪の降る夜など・・
手水鉢が凍っていたのをおぼろげながら覚えています・・

2005/8/20「ルーツ」 

posted by マロニエのこみち・・・。 at 19:34| Comment(2) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月14日

「伯母の反物」

昨日の朝、田舎の親戚から、箱三つ分の、反物が届いた
大島や小千谷紬といった高級品から、縮緬、綿絣など
数え切れないほどのたっぷりな量である
数年前に亡くなった伯母の遺した着物反で
その伯母のことは、前に記事にしたことがある

2006年02月08日「続・ウエストの存在」

実は伯母が亡くなり、その後を追うように伯父も亡くなったとき
何の血縁もない遠縁になる親戚が、伯母の遺した着物や宝石、
作った人形の類までを、まるで火事場泥棒のように連日漁り、
持ち帰るという経緯があった

今、家に遺された養子婿である義兄はJTのOBで、真面目で物静かな人なので
そのひどい輩のなすがままにされていたのだけれど
こと自分の妻であった姉の遺品にまで手が及んだとき
とうとう抑えきれなくなって
大事な妻のものまで持っていくのはやめてくれと一喝すると
ようやく事が収まった

そんなわけで、私は欲というのではなくて、
小さな頃から可愛がってくれた大好きな伯母の形見分けもなく
とても寂しかったのだけれど
泥棒たちは、形になった着物ばかりに手を出して
反物で残っているものの値打ちはわからなかったのか
押入れにまだこれだけの遺品があったのだった

伯母たちが亡くなり、遺された義兄に
伯母に代わって相談相手になっていた母に
こんなものが残っていてもどうしようもないので
貰ってくれときた話なのだけれど
母も反物など貰っても仕方がないが私なら何とかするだろうからと
送ってもらったものなのだった

反物を眺めながら、まだ建替えをする前の
平屋だった伯母の家を思い出した
小さなテーブルに黄八丈のような色柄の反物を広げ
私は伯母に、和裁を習いに行ったのだった
テーブルの向こうには、油の匂いのする昔の足踏みミシンがあって
ちょうどこんな秋のいい日和だった

10年も前に、私が着物に夢中になっていた頃
自分の好きなデザインの昼夜帯や、裏を使った着物を着たいからと
一時、仕事帰り、阪神百貨店の和裁教室に、足掛け3年ほど通ったことがあった
伯母にその話をすると、うれしそうに
「私はこの頃、目が悪くなって針仕事が大変だから、
私の代わりに、オジちゃんに浴衣を縫ってくれない?」
と頼まれ、まだ元気だった伯父の浴衣も縫ってあげたことがあった
伯母が入院したときは、好きだった人形を作ってあげようと
古布の縮緬で、小さくて下手な人形を作って送ったこともあった
荷物の中には、伯父に作るため、取ってあった袴や浴衣の生地もあり
やはり伯母は、伯父さんのことが好きだったんだなと
胸が熱くなるようだ・・・

義兄のように物静かだった伯父は、私が中学のとき、同じ中学に転任した
当時私は、思春期で体調も気分も思わしくないうえに
風邪気味なのに夜更かしして小説などを読み漁り
ある日、保健室で、半分ズルをして休んでいたのだけれど
伯父が入ってきて驚いたことがあった
てっきり叱られると思っていたら
「徹夜で勉強でもしたんか?大丈夫か?」
と、優しく笑ってくれて、ほっとしたことがあった

総理大臣の菅さんは好きでも嫌いでもないが
あの顔立ちが伯父に似ていて、菅さんを見ると、伯父を思い出すのだった
中学の教頭で職務を終えた後は、福祉活動と、
高野山や菩提寺への寄付に余念がなかった
多分、退職金の殆どを寄付に使っていたと思う
老人になり、心細くなったのか、仏の加護を得たかったのかもしれない
お坊さんに憧れて、普段は作務衣ばかり着ていたそうだが
何の加護も得られずに、一人病院のベッドで逝った
立派な家に建て直してから、あの家には、
良いことが殆どなかったように思えるが
私は家相が悪いのだと思うがどうなのだろうか・・

そんな二人や、二人よりも先に旅立った姉のことを思い出し
懐かしいような哀しいような温かな感情が溢れる
もうすぐ命日の来る夫と、秋の池坊の展示会に伯母が来るからと
伯母から譲り受けたお姉ちゃんの大島の着物を着て
二人で高島屋に会いに行ったのも、重陽の日に近い
ちょうどこんな秋のお天気のいい日なのだった・・・

posted by マロニエのこみち・・・。 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月27日

「東京・日本橋にまつわる…@〜墨田の路地」

リメイク用の秋冬物のコートやジャケットが、ポツポツ届き始めました
お問い合わせメールも毎日のようにきております
ありがとうございます
特殊なもの以外は、到着順に着手してゆきますので
タンスの肥やしになっているお洋服のリメイクをご検討中の方は
どうぞお気軽にお問い合わせ下さいませ

ところで、今コートをお預かりしているお客様に
東京日本橋にお住まいの方がいらっしゃいます
拙ブログも見て下さっているとのこと
ちょっと面映い気も致しますが(^^;)うれしいです
(ありがとうございます)

日本橋といえば、古巣だった会社の本社があったところ・・
でも、日本橋といっても広いのですね
このお客様のところからは随分離れているようですが
八重洲口から出て高島屋の裏通り、飲食街の細い道を抜け
ある会館を目指して歩いてゆくと目的地
年に何度か、会議などで出かけたものでした

そしてその出張が金曜日だったりし、会議が終わりフリーになると
ふと抑えきれない旅情に掻き立てられて
もう一日滞在を伸ばすため、空いている宿を探し
行った事もない・・・例えば西葛西の駅から人影まばらな暗い通りを
15分程歩いたところにある殺風景なビジネスホテルだとか、
西新宿の怪しくも鄙びたホテルだとかに一泊し、
次の日は思いつくまま東京散策をするという
何とも気ままな独身時代を過ごしたものでした

そんなある日、浅草という街に行ったことがなかったので
電車に乗って、行ってやろうと試みたまではよかったのですが
出口を間違えてしまったのか、地上に出て見たのは墨田の町・・・
川に沿って歩くとアサヒビールのあの金色のオブジェがあって
植え込みのある細い脇道を入ると、そこは生活観の漂う路地裏の民家・・
その民家に沿った狭い道を歩きながら、
日本の路地ってどこも同じ匂いがすると
何か郷愁や旅情を感じたものでした

結局、浅草には今だ、行けていないのですが
このとき入った墨田区役所
多分、トイレでも借りるつもりで立ち寄ったのだと思いますが
エレベーターで上まで行くと、そこは、誰もいない一等地
見晴らしの良い窓から東京の下町の風景を独り占めしながら眺めた・・・
そんな素敵な思い出があります
今なら、スカイツリーがどこからでも眺められるのでしょうね
この東京タワーの倍程もあるというタワーの計画を聞いたときは
某都知事さんがトチ狂ったのかと疑念が湧きましたが;
お写真などで拝見する限り、新しいのに何故かノスタルジックな匂いがして
意外に馴染んでいるようですね・・
いつかまた行ってみたい
私のfavoriteな街のひとつです・・・

posted by マロニエのこみち・・・。 at 10:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月19日

「海の日」

【海の日】だそうです
昭和生まれには何となく耳慣れない言葉ですが、
調べてみると平成8年に制定された祝日だそうです

夏休み、海にまつわる唱歌などを歌って過ごしていた頃・・
父の実家によく連れて行かれましたが
親戚の伯父さんばかり集まるそんな時間は退屈で・・・
私は一人でこっそりと逃げ出して家に帰ろうとしました

一人で吉野川にかかる長い橋を歩いていると、向こうの方から
その親戚の家の中学生だったお兄ちゃんが自転車で走ってきます
私は隠れようとしましたが、橋の上、隠れる場所はありません

どうしたの?と訊かれて、私は家に帰ると・・
じゃあ、送ってあげるよと、私はお兄ちゃんの自転車の後ろに乗せられました
長い長い時間でした
その後、親戚に人が集まるたび、小さかった頃の私のこのエピソードが
語り草となりました;
そんな父方の叔父叔母も、ほとんどの人が亡くなりました

白いシャツの背中がまぶしかった、優しくて大好きだったお兄ちゃんは
今、海上保安庁の偉いさまになっているそうですが
もう、長いこと、会っていません
今日のこの日は、多分、何かのイベントに参加していることでしょう・・・







posted by マロニエのこみち・・・。 at 11:09| Comment(8) | TrackBack(0) | 思い出話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする